東京大空襲 体験談 浅草 当時の暮らし

未分類
記事内に広告が含まれています。

 

 

東京大空襲を経験された方へインタビューをする機会があり

語り手の当時の生活

メインとなる東京大空襲時の体験談

インタビューを終えての感想

 

をまとめてみました。

 

 

 

普段投稿しているブログのジャンルとは完全に違いますが、

最近データ整理を行っている時に

このインタビューデータをたまたま発見し、懐かしい気持ちで読み返したのと同時に、

貴重な内容だと思い、当時のレポート内容を読みやすいように編集を加えて投稿することにしました。

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 

このレポートは、私が当時大学生の時の授業「記憶の社会学」

という授業で提出した2008年のレポートになります。

 

 

課題の詳細としては、

元軍人さんや一般人の方を問わず、戦争を経験された方へインタビューをするというものでした。

 

 

言うと簡単に聞こえますが、

対象の方を探すにあたり、よっぽどな繋がりがないと対象者を探すのも難しいうえ、

内容が内容だけに、インタビューを受けて頂けるかのアポも取れるか!?

かなり厳しいハードルがありました。

 

 

 

幸いなことに、対象者を探すにあたり、

小さいときから戦争の話を祖母から聞いてたこともあり

ダメ元で、そんな人いない?と聞いたら

なんと、祖母のお友達にいるということで祖母経由でコンタクトを取ったら

快くインタビューを受けて頂きました。

 

 

 

語って頂いたことをこうやって文字に起こして後世へ語り継いでいくことが貴重な財産だと思い、

ここへ残すことにしました。

 

 

 

 

※当時色々と未熟な大学生がインタビューしたので

インタビュースキルの稚拙さはご了承ください>< 

 

 

 

 

 

 

 

語り手について、当時の生活

 

名前は仮称です

 

 

 

まずお名前を教えてください
はい。鈴木芳子です。

 

 

年はおいくつですか?
数え年っていうのだと83なの。満で81。

 

 

出身のほうはどちらですか?
出身はね、東京都。

そのころは東京都じゃなくて、東京府、東京市、浅草。

当時の言い方だと浅草区、日本堤

 

 

 

 

そこまで覚えてらっしゃるんですか? すごいですね。
焼けなけれりゃ忘れちゃうのよね。

焼けたから覚えてられるのかもしれないのね。

 

 

 

 

学校には行かれましたか?
ええ。あそこにね。浅草のかんのうら(観音裏)に せんぞく小学校 っていうのがあるんですね。

今でもあります。その小学校。(台東区立千束小学校) 

 

 

 

 

中学校のほうは?
そのころ中学校ってなくて、小学校までが義務教育。

その上が、小学校の高等科。高等科が2年。それは行っても行かなくてもいいわけ。

それで私は、いまど高等。(台東区今戸にあった学校のこと? 正式名称わからず)

それはだから6年生が義務だから、それ以上行っても行かなくてもいいの。

それで女子校行く人、高等小学校行く人、6年生で終わる人って、そういう風にいたのね。

 

 

 

 

 

何人家族でしたか?
お父さんでしょ、お母さんでしょ、兄、姉、あたし、それからこないだ亡くなった妹、それから弟、

それから今いる妹、それから空襲で死んだ弟、それから1番末っ子の妹の10人家族。

でも、兄は空襲のときは兵隊に行ってましたからね。

それで姉は、お嫁に行っちゃってから、うちにいたのは9人です。

 

 

 

 

ご両親の職業は何でしたか?
そのころは今と違って靴屋さんもあったけど、当時は下駄を履く人が俄然多かったわけよ。
だから、その鼻緒の製造をしてました。

 

 

 

戦争は何歳から何歳の時まであったのですか?
そのころは数え年なのよね。
昭和12年に始まったんだから、数え年13歳。
始まったのはね。それは日清事変。それから昭和16年くらいかな。

日中戦争  日華事変を指してると思われる)

 

その後アメリカと戦争になって、確かあれは昭和16年だったと思いましたね。
アメリカとの戦争は。(太平洋戦争)

 

 

 

 

 

戦争が終わったときは何歳のときですか?
数え年21歳。満で19歳。

 

 

 

 

戦争中、学校でどんなことをしてましたか?
あたしはもう学校は終わってました。うちの母の手伝いをしてましたから。

だけどそのころは、あたしの兄弟達はまだ学校に行ってましたけどね。

もう遊戯でも、唱歌とか唱歌といっても軍歌に近いものを歌わせてたかもしれないですね。

それで、アメリカとの戦争が激しくなって、終戦する少し前くらいから高等小学生でも、

少し軍需工場へお手伝いに行かされたりしたんですよね。

 

 

 

 

では、今みたいに勉強とかではなく、歌を歌ったりとか?

軍需工場と言ってもわからないわよね? 

軍需工場とは軍隊に使う、靴の工場とか、洋服の工場とか、鉄砲の弾を作るいろいろな工場があるでしょ?

そういうものの、子供でもできるようなものを手伝わされるんです。

 

 

 

 

そのころはそのお仕事で給料は貰えたのでしょうか?
さぁ~どうなんでしょうね?学生だからくれないかもわかんないわ。

あたしなんかは母親の手伝いでうちにいたでしょ?

そしたらね、あれは今で思えば、浅草区だか、東京都だかはわかりませんけども、

そういうところから手紙が来ましてね、軍需工場で働きなさいっていうね、そういう命令が来るんです。

 

 

 

ですけどね、あたしの父も母もね、あたしがね、体は丈夫なんですよ。

だけど、なんていうんだ、意気地がないから、この子がもしね、九州だ、北海道だってね、

そういう工場に行かされたり、それでね、そんな遠くへ行かされてね、

この子は意気地なしだから、どうかなっちゃったら可哀想だっていうんでね、

嘘を言ってでもね、断ったほうがいいと思って、

父親が自分の商売仲間にどうしたらいいんだろうってね、相談に行ったら…..

 

 

そしたら親も兄弟もみんな体が弱くてね、1番上の姉だから家にいなくちゃならないんだって、

うまく言ったほうがいいよってね、そして、そう言わされて、断りに行ったの。

 

そしたら、お父さんはどうなんだって言ってね、父はね、いつもお医者さんにかかってます。

そしたらね、医者は軍隊にもあるんだ、おまわりさんのところでも病院はあるんだってね、

それでそのうちにまた連絡するからって言われて、それが確か12月だと思いましたね。

 

そして来年またすぐ連絡するからって、今度はお前じゃなくて父親をよこすんだって、

そのころのおまわりさんはとても威張ってたからね。

 

そして、それが12月だったでしょ。月が変わって1月。それで、来るのかなぁ?困ったなぁって

親とそう思いながら、そういう知らせがこないうちに3月10日で空襲に遭っちゃったの。

3月10日の詳細

 

 

 

 

 

お父さんは病弱だったのですか?
弱かった。今だったらなんともないんだけど、血圧が高かったんだかなんだかで。

あとで母親が言うには今の時代だったら治ったねぇって、昔は血圧のことなんて、常識も知識もなかったから。

お医者さんにあ~だこ~だ言われると素人はああそうですかって感じで、

お医者さんだって今と違ってそれだけ今と違って知識がなかったらしいのよね。

 

 

 

 

戦争中の1日は主に家事を手伝ったりしてたんですか?
女の子でも昔は勤めに出したの。学校が終わると。
うちじゃ旧式でね。明治時代のままでね。

私の姉もいたんですよね。でも姉はね、朝食が済むとお茶碗洗ってもうすぐに近所の仕立屋さんに行って、

月謝を払って、仕立ての仕方を習うの。女だから着物が縫えないとお嫁に行けないからね。

そして、お昼ご飯を食べに帰ってきて、ご飯食べるとまたすぐ仕立屋さんへ戻って1日お裁縫を習ってたの。

 

 

だから、私が家に居てね、小さい兄弟がぞろぞろいたでしょ。
私が母と一緒に面倒見てたの。

でもね、母親が昔の人だから、昔風にするでしょ?

そうするとね、どなたか来たりすると丁寧に挨拶させるのよね。

 

おまわりさんは今と違って、よくは覚えてないけど、

1ヶ月に1回か3ヶ月に1回かは忘れたけど、1軒1軒回って戸籍調べをやったんですよ。

戸籍の分厚い紙を持ってね。

 

 

そうしたら母が姉に言って、お茶を出させるのよね。

おまわりさんは忙しいから、「いらないよ」なんて言うけど、姉が丁寧にお辞儀をしてお茶を出すもんだから、

あ~悪いねぇって言って飲んでいってくれるわけ。

 

 

そういう風にして過ごしてたから、私は戦争中も軍需工場へは行かなかったしねぇ。

でもやっぱり、そういうのはどうしても行かなきゃならないの。

1週間か10日ぐらい行ったのかな。そうしたら空襲で焼けちゃったの。

 

 

浅草の国際劇場 のすぐそばにあって、普通の家を工場みたいにして、軍需工場ってことにして、

鉄やなんかを扱うそういう仕事まではやらなくて、なんかのお手伝いくらいで、日にちが浅いから。

そういう経験は今思い出しましたねぇ。

 

 

 

 

 

 

東京大空襲の体験談

 

 

浅草の辺りが空襲の時に酷かったんですか?

空襲の話は1番最初から話したほうがいいわよね。

 

お店の時計はこんなに大きかったのね。

それは鳴らないのよ。時間がきても。

奥の時計は昔の振り子時計だからチーンチーンって鳴るの。

それで11時に鳴ったときは、私たちは見なくても音は聞いてたの。

 

 

もう空襲でうちの近くは燃えてなくても、うちから向こうが吉原で、

吉原のずっと向こうの空が真っ赤になってるから、あんなに空襲で焼けちゃってるんだよ。

 

ここも逃げるようになるかもわからないよって言うんでね、

夜中に逃げると言っても、いくら3月10日といっても夜中はまだ寒いから、

いつでも寒くないようにシャツやなんかを着てる中に、綿入れを着て、

それでそのころだから、上着ともんぺでいつでも空襲のときは逃げられるように、

 

 

普段から空襲の時には火を消すという訓練はされてるけど、

そんな訓練くらいじゃ役に立つようなもんじゃなくて、

みんな逃げるのに必死で、夜中だし、荷物も持って、

私の母親も赤ん坊をおぶって、赤ん坊がオムツが必要だから、オムツを持たなくちゃ大変だから、

その上の子の手を引いて、いつでも逃げられるようにして、その時に、奥の座敷の時計が0時を打ったの。

 

 

 

そのうちにうちの家の前を、荷物を持った人たちがゾロゾロ大勢避難するわけよ。

向こうのほうの人たちが来て、うちの前を通ったんでしょう。

 

そしたらもう一杯でね、そのうちこの辺も歩けなくなるんだから、

今のうちに逃げたほうがいいんだってうちの父親が言って、

家を出るときは、家族でまとまって家を出たの。

 

 

でも、浅草の仲店は歩けないくらい人が一杯なのよ。

だから、歩いてるうちに家族がみんなバラバラになっちゃうのよ。

よその人と一緒になってわからなくなっちゃうのよ。

 

 

それで、空襲だから電気は切れてるわけではないけれど、付けちゃいけないから、

表の街灯も真っ暗で、人が歩くだけだからすぐわからなくなっちゃうの。

少し歩いていくうちに、どこへ逃げようというわけじゃないけど、とにかく火のないところへ行くわけだから。

 

 

そのうちに浅草にフジ小学校っていうのがあって、(現在の台東区立富士小学校)

そこを曲がると、馬道通りってなるわけ。

そこを曲がるときにね、わたし、お父さんが弱かったから気になって、「お父さん」って声をかけたら、

「はいよ」って大きな声で返事したの。

 

 

それでまたちょっと何メートルかで、ほんのちょっとのところで「お父さん」 

「はいよ」って返事があったの。

 

あ~元気だなって思って、それで馬道通りを通り越して、向こうの通りへ入ったら、

すぐに左側の家で、今はベランダって言うけど、昔は物干しって言ったの、

その物干しがパーンって赤く火が上がったの。

 

 

そのときはわからなかったけど、あとで考えれば焼夷弾が落ちたのかも。

それで、私もだけどみんなビックリして、元の道へ戻って、そのうちに赤い炎から遠くへ逃げて、

左へ曲がると墨田公園になるわけ。

墨田公園になら、家もないし燃えるものもないからいいかと思ってね、

公園なら、木はあるけども、住んでる住宅がないからね。

 

 

私は一人でお父さんも誰もいなくて、荷物を持って、そのときは数え年8歳の弟、

弟はね、4月から小学校に入学するんでね、物がないから探して探して、

風呂敷包みっていうわけにはいかないから、それこそ闇市で探して買ってきて、

学生服も闇市で買ってきて、入学を楽しみにしてたのね。

 

 

その弟の手を引いて、荷物を持って私は逃げてたのね。

それで墨田公園に入って、お父さんもわからなくなって、私と弟だけになっちゃったのね。

 

それで墨田公園に入ったんだけど、人がたくさんいて、そしたら私の妹が「芳子姉さん」って言ってきたわけよ。

「はっ」って見たら、

「芳子姉さん、まだ荷物持ってるの?私はもう捨てちゃったよ。

荷物持ってるんだったら、私がヒデ坊を連れて行く。」って言うわけよ。

 

 

それでそのままどこかへ行っちゃって、またバラバラになっちゃったわけよ。

人が一杯で一緒にいられないのよ。

そのうちに公園にいる人たちの荷物に火が付いちゃったわけよ。

 

 

焼夷弾は落ちなくても、周りで燃えている橋の火の粉とかが飛んでくるわけよ。

橋の上が燃えちゃってもの凄かったのよ。

あとで聞いた話だけど、燃えていて熱いから、

泳げなくてもなんでも橋の上から飛び降りて川に飛び込んじゃうのよ。

 

 

私たちは橋のそばにいたんだけど、見られないのよ。

自分は怖いから見ようという気にならなかったのよ。

そのときに荷物を持ってる人は、「向こうへ行け、向こうへ行けって言うわけよ」

それでみんな怖いから地面にこうやって伏せてたわけ。(実際にやってみせてくれた)

 

 

顔をこうやってあげると、火の粉が飛んできて私もこの辺火傷したの。
(足の火傷の跡を見せてくれた)

 

こういうところ火傷しちゃうし、自分の髪の毛がね、火の粉が付いて、

バァーって燃えるの。自分の着物にも火が付く。

 

 

そしたらその辺にいた男の人の声がして、

「おい、そこの若い娘、これから嫁に行くのに、頭が燃えたら嫁に行けないぞ。

顔を上げると火の粉が飛んで顔が火傷するから、地面に顔をくっつけて片手で頭をかき回せ。」

 

 

って言って、「片手で隣の人の背中やお尻を叩いて火の粉を消すんだ」って、

それが声だけで、誰が言ってるのかわからないのよ。

 

 

それでも言われたとおりに隣の人の背中やなんかを叩いて、私の体は隣の人が叩いてくれて、

あとでわかったんだけども、着物の背中の辺りが丸く黒く焦げてたのね。

焦げてたんだけども、火傷はしなかったのよ。

だからそのように周りの人が叩いてくれなかったら、私も死んでたかもしれないのよ。

 

 

 

それで私の周りは死体がたくさんあったのよ。

その死んだ人っていうのは男も女もわからないくらいで、みんなそれこそ真っ黒こげ。

そうだねぇ、黒と茶色を足したくらいかな。

髪の毛は1本もない。着物もみんな燃えちゃって、体だけなのよ。

そういう死体がいっぱい、私からその辺の距離のところでいっぱい死んでたんだから。

だからその男の人の声で、みんなその男の人の声の言うとおりに動いたわけよ。

それで、「荷物を持ってると火が付くから、荷物を持ってるものは放れ。

手で放ると手も火が付いちゃうから、寝たままで、足で放れ」って。

そうやって、私も荷物を持ってたから、こうやって足で遠くへやったのね。

 

 

そしたら今度は人間に火が付いちゃうのよ。

そうすると今度はその男の人の声で

「ほら、人間に火が付いた。可哀想で気の毒だけどしょうがない。

その人間も蹴っ飛ばせ。」って言ったわけよ。

 

女の人はできなかったと思う。私もできなかったから。

だからその中の誰か男の人が人間は荷物と違って重いからやったんでしょうね。

 

 

それで私の隣の人が赤ん坊をおぶってたの。

そのうちにおんぶしてる赤ん坊のお尻に火が付いたのよ。

赤ん坊は泣くけども、親は熱くないからわからない。

そしたらその男の人の声でね、「ほら、おかみさん、赤ん坊の尻にも火が付いたぞ。」

そう言ったら、その隣の人はびっくりして立ち上がったのね。

みんなが寝そべってる周りを歩き回って「助けて、助けて、助けて」って周ってるわけよ。

 

 

でも、誰も助けられないのよ。

自分に火が付いちゃうから。立ち上がったら火がついちゃうから。

そのうちに声がしなくなったから、どこかで倒れちゃったんでしょう。

そしてそのうちに今度男の人が立ち上がったわけなんだわ。

違う男が、お爺さんが。

 

 

そしたらその男の声でね「爺さん、なに立ち上がるんだ。」って言ったら、

その爺さんが「着物なんか着てるから燃えるんだよ。裸になれば燃えないよ」

そう言って、私も寝ながら少し顔を上げて見たら、その爺さんは上を全部脱いで、裸になっちゃったの。

ズボンを脱ごうとしたら、ズボンに火が付いて、ズボンに火が付いた火の粉がもの凄い飛んでくるわけよ。

火の粉が付いたらもう燃えちゃってズボンは脱げないのよ。

そしたらそこでバタバタしてたけども、そのうちに声がしなくなったから死んだわけなんでしょう。

 

 

 

 

そのうちに火の粉の勢いが弱くなってきて、

その男の人は「俺たちはなんとか助かりそうだ。アメリカなんかに負けないぞ」ってそう言ったの。

 

 

そしたら女の人はみんなシクシクって泣き始めて、そのうちにウワーって泣き始めたの。

そしてもう少し明るくなって、周りを見回したら、もう周りが死体だらけで、

私のすぐ足元が死んだ人の足だったのよ。

それくらい私のすぐ近くは死体がたくさんあったのよ。

暗くて最初は全然わからなかったんだけどね。

 

 

 

 

それで、明るくなって、その男の人のおかげで助かったわけだから、

誰でも人はその人に助けてくれてありがとうございますってお礼がしたくなるもんでしょ。

それでお礼をしようと思ってあたりを探したんだけども、そのころはもう何も言わずにいなくなってたのよね。

 

 

だから、おかげで助かりましたってお礼を言った人は誰もいなかったのよね。

結局助かったのは、私みたいに若いものばっかり。だからあの人のおかげで何人もの人が助かったわけ。

それであとで聞いた話なんだけど、橋の上から飛び降りた人の死体が川の岸にズラーっと並べてたの。

それこそ隙間がなくてびっしり。

男なのか女なのかもわからないくらい変わっちゃってたんだって。

だから私が経験したのはそれこそ生きるか死ぬかの間だったのよね。

 

 

 

 

 

空襲のあと、日本軍の人たちは来たりしたんですか?

そのころは今と違って兵隊さんばっかりでしょ。

兵隊さんがね、トラックで死体を山積みにして、私が見たときは4台で今みたいにあんなに大きくないのよ。

でもそのころ、トラックはとても大きなもののように見えてた。

それも4台で全部運びきったわけじゃないんだけど、4台で走っていくのを私は見たの。

真っ黒になった死体を。

それで兵隊さんに、向こうのほうに空襲で焼けなかった学校が残ってるから、

そこへ行ってみたらどうですかって言われて、家に帰らずにその学校へ行ったのね。

親や兄弟に会えると思ってね。

 

 

 

それで、向かう途中に橋を渡ったんだけど、死んだ人がもの凄いいて、

よく見て歩かないと死んだ人の手を踏んじゃったり、それを避けようとして歩くと、

今度は頭を踏みそうになったりして。

 

 

 

 

お母様とは結局会うことはできたのでしょうか?

兵隊さんの言うとおりにその避難所に行くと、みんな煙やなんかで目がおかしくなったりしてたのよ。

お医者さんが目を洗ってくれるわけ。

みんな並んで洗ってもらって、私が洗ってもらったあとに、休んで座ってたら、

母親が向こうのほうから来たのが見えたの。

 

 

お母さんに声をかけたら、お母さんも涙を流して喜んでね。

「お前も生きてたんだねぇ」って言って、

「お父さん見たかい?」って言われたんだけど、私は見てないから、

とりあえず焼け跡に戻ってみることにして、そしたら焼け跡のところに様子を見に来た父親の弟がいて、

2~3週間くらいその家にお世話になったんです。

 

 

 

 

 

 

 

ご家族は何人生き残ったんですか?

私でしょ。それからすぐの妹、妹と一緒にいた弟は焼け死んじゃったの。

妹の話だと、一緒にいたんだけど、火の粉が飛んでて避けてたんだけど、

避けてたら弟の姿が消えちゃったのよって言うのね。

きっと火の粉が来て、怖いから動いちゃったんでしょう。

あとは、母親とおぶっていた赤ん坊と、母親が手を引いてた子、

あと小学校3年の子、私の5つ下の弟、全部で7人かな。

→お父様は残念ながら亡くなってしまったと思われる

 

 

 

 

 

空襲の後に、アメリカの兵士さんは浅草に来ましたか?

アメリカの兵士さんも見ましたよ。

でも別に怖くはなかったの。

日本の兵隊さんとは違って、ガムをクチャクチャ噛みながら気楽に歩いてる感じなのよね。

ただ、戦争に勝った国の兵隊さんというのは、ああやってのんびり気楽な感じに見えるのかなって思った。

 

 

 

 

 

本日はお忙しい中、貴重な話を聞かせていただき、ありがとうございました。

こんな話で大丈夫でしたか。

私は家が焼夷弾に直接当たったっていう経験の話じゃなくて、

家が燃える前に逃げてきたから、そういう経験の話はできなかったけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記

 

 

まず、インタビューを受けていただいた鈴木さんの印象としては、

年齢からは想像できないとても若々しくて、礼儀正しい方で、

インタビューでもおっしゃっていたように、家の厳しい教えを今でも守っているのだなぁと思った。

 

最初に挨拶をした際に、わざわざ床に正座をして、土下座みたいに挨拶をしてたので、

私は最初戸惑ったが、あとで考えると、

それくらい他人に接するときは常に謙虚にするということを心がけるのが大切なんだなと考えた。

 

 

次に、鈴木さんの記憶力は、普段の生活での最近の記憶というのは覚えていない感じでしたが、

大空襲の体験話をしているときは、鮮明に残ってるみたいで、

次々と話してくれたことが印象的だった。

話にも臨場感があって、こっちにもそれが伝わってきた。

 

 

今回、こうやってインタビューしてみて、

私が知らなかった貴重な話を聞くことができたのは、収穫でした。

 

 

1年生のときにも、ゼミで何回かインタビューをしたことがあったが、

その当時と同様、インタビューの途中で興味深い話が出てきたときに、

その話をもっと深く聞きだすための質問が瞬時に考えることができなかったのが残念だった。

 

やはりインタビューというのは、たくさん経験をして、うまく話を聞き出すコツを掴むものだと思った。

今度このように、またインタビューする機会があったら、今回の反省を踏まえて、

もっと掘り下げた深い話が聞きだせたらいいなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年改めて読み返して思ったこと

インタビュー当時から14年が経過、

もし今も鈴木さんがご存命なのであれば現在 95歳

元気でいらっしゃるだろうか……..

今も元気でいらっしゃっても当時の若々しい印象から全く驚きではない。

 

 

当時の記憶を思い出したくない気持ちもあったかもしれないが、

その鮮明な記憶をチャンスと思って深く質問できなかったことが本当に悔やまれる。

今読み返してみると、

インタビュー最後の終わり方・締め方があまりにもあっさりし過ぎていて、

もっと突っ込んで聞くべきことがたくさんあったはずなのに

凄くもったいないと感じた。

 

 

 

空襲という壮絶な出来事の後、

どのように立ち直り現在まで生活してきたのか聞いてみたかったものである。

 

 

 

戦争時、日本とアメリカは敵同士であり

その敵であったアメリカに、アメリカ人の妻と結婚し娘も産まれて生活をしている。

なんとも不思議な気持ちである。

 

 

 

私自身は、アメリカに対して憎たらしく敵意があるというわけではなく

戦争を知らない自分が当時経験した方の話をこうやって残し、多くの方へ読んでもらうことで

当時の戦争の記憶が薄れないよう、無くなってしまわないように務めるのが

私に出来ることだと思い、今回こうやって投稿することにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その他オススメ記事

 

 

プロフィール

 

 

オーランド生活(アメリカ生活)お役立ち記事リンク集

 

 

アメリカ生活 必須 & 節約 アプリ & サービス紹介 招待コード一覧

 

 

国際恋愛・国際結婚 記事リンク集

 

 

アメリカ移住のリアル 良いところ・悪いところ

 

 

1歳10ヶ月の娘が自閉症と診断されるまで

 

 

アメリカの4大プロスポーツについて

 

 

ヨーロッパ4ヶ月で25カ国周遊 バックパッカー旅行記

 

 

 

 

コメント